茂森ねぷた 300余年の系譜と茂森津軽ネプタ愛好会60年の軌跡
Ⅰ. 江戸時代:ねぷたの誕生と「茂森町」の原点
- 1682年(天和2年):山車(だし)行事の記録
- 弘前ねぷたの源流の一つである城下の山車行事において、茂森町は「大根山(だいこんやま)」と呼ばれる山車を出陣させていました。当時の茂森町には常設の芝居小屋「茂森座」があり、城下きっての娯楽・芸能の中心地として、早くから祭り文化の担い手となっていました。
- 1722年(享保7年):『御国日記』への登場(弘前ねぷた最古の記録)
- 5代藩主・津軽信寿が「祢むた流(ねぷた流し)」を高覧した藩の公式記録に、運行順序として「二番:茂森町」と明記されます。これが弘前ねぷたの存在を証明する歴史上最古の文献であり、茂森町の名は弘前ねぷたの歴史の幕開けそのものに刻まれています。
- 1739年(元文4年):『子供ねぷた流し喧嘩口論禁止令』
- ねぷたが城下で盛んになるにつれ、町同士の縄張り争いや進路を巡る喧嘩が多発。藩から初の禁止令が出されます。城下有数の大通りであった茂森町周辺は、ねぷたが密集するボトルネックであり、取り締まりの重要地域となりました。
- 1748年(延享5年):運行日の「1日限定化」規制
- 過激化する喧嘩を抑え込むため、藩は数日間に及んでいたねぷた運行を「7月6日の1日のみ」に制限。しかし、町民のエネルギーは抑えきれず、逆にその1日に熱狂が凝縮される結果となりました。
- 1775年(安永4年):御家中(藩士)と町人の刃傷沙汰(最大の流血事件)
- ねぷたの鉢合わせをきっかけに、武士と町人が激突。刀が抜かれ、相手の手首を切り落とす者まで出る大流血事件へ発展します。翌年、藩は「他町への遠征禁止(自町内限りの運行)」という厳罰を処しました。
- 1788年(天明8年):絵図『子ムタ祭之図』と「箱型灯籠」の時代
- この頃のねぷたは現在の扇型ではなく、縦長の「箱型灯籠」でした。当時の灯籠には、風流な文字の横に「禁喧嘩(喧嘩禁止)」や「石投無用(石を投げるな)」と墨書されており、茂森町をはじめとする城下でいかに激しい投石戦(石合戦)が日常化していたかを示す物証となっています。
- 1818年(文政元年)頃〜:人形ねぷたへの進化
- ねぷたの形状が、高さ3間(約5.4メートル)に及ぶ巨大な「人形ねぷた」へと大きく変化し、お祭りの規模がさらに拡大していきます。
Ⅱ. 明治・大正・昭和初期:激動の「喧嘩ねぷた」と弾圧の時代
- 1873年(明治6年):明治政府による「ねぷた全面禁止令」
- 近代化を進める明治政府(青森県初代県令)により、旧習の打破と喧嘩の温床排除を理由にねぷたが全面的に禁止されます(明治15年に『ねぷた取締規則』とともに解除)。
- 1877年(明治10年代):派閥化と「上町組(茂森)」の死闘
- 解禁後の明治期、ねぷたは地域ごとに巨大な連合(派閥)を形成。茂森町・在府町・本町などは「上町組(かんまちぐみ)」として結束し、仲町(親方町・百石町他)・下町組(鷹匠町・新町他)と激しく対立しました。仕込み杖や棍棒、大量の石で武装し、相手のねぷたを破壊し合う「本物の合戦」さながらの乱闘が、夜な夜な茂森周辺で繰り広げられました。
- 1914年(大正3年):警察指導による初の「合同運行」
- 路上での鉢合わせによる衝突を防ぐため、警察の管理のもとで時間を決めて並んで歩く「合同運行」が初めて導入されました。同時に、高圧的な寄付集め(門付け)も禁止されます。
- 1922年(大正11年):弘前警察署前での『半鐘事件』
- 合同運行の導入後も火種は消えず、上町組と下町組が弘前警察署の真っ正面で大激突。警察官だけでは制止できず、火災を知らせる非常用の「半鐘」を鳴らして消防組(消防団)を出動させる前代未聞の大騒動となりました。
- 1935年(昭和10年):秩父宮雍仁親王の赴任と喧嘩の終焉
- 弘前の歩兵第31連隊に秩父宮殿下が大隊長として着任。その強い権威と指導力が街全体を引き締め、軍国主義への傾斜も相まって、大正期まで続いた荒々しい「喧嘩ねぷた」は急速に姿を消していきました。
- 1937年(昭和12年)〜1946年(昭和21年):戦時下の禁止と中断
- 日中戦争から太平洋戦争にかけて、時局を理由に弘前警察署から全面的な禁止令が出され、一部の戦意高揚目的を除いて運行が途絶えました。
Ⅲ. 戦後〜現代:観光祭りへの昇華と「愛好会」60年の歩み
- 1947年(昭和22年):終戦直後のねぷた復活
- 物資も紙も極端に不足するなか、市民の凄まじい熱意によってねぷた運行が再開。GHQ統治下において、民主的な市民の祭りとして復興を遂げます。
- 1951年(昭和26年):『ネプタコンクール』の開始
- 弘前青年会議所の主催でコンクールが始まります。これにより、評価基準がかつての「喧嘩の強さ」から「ねぷた絵の美しさ」「お囃子の技術」「運行の規律」へと180度転換し、現在の芸術的な観光祭りへの土台が作られました。
- 1966年(昭和41年):【茂森津軽ネプタ愛好会】の創立
- それまでの「町内会(自治会)単位」での運行維持に行き詰まりを感じていた地域住民や、初代会長三國弘 氏、初代絵師の堀江清泉氏らが立ち上がります。秋、弘前で初となる「ねぷた愛好会組織」として結成。会員28名、会費200円からのスタートでした。町内の枠を超えて広く会員を募るこのシステムは、現代の弘前ねぷた運行団体の先駆者(モデルケース)となりました。
- 1967年(昭和42年):初陣と初受賞
- 愛好会として初の運行。題材は『三国志
関羽、華雄の首を取る』。ナカニシデパート賞(奨励賞)および観光土産品組合賞を受賞し、華々しい一歩を記します。
- 1969年(昭和44年):愛好会会歌と「揃い浴衣」の誕生
- 10月に愛好会会歌が完成。さらに揃いの浴衣が作られ、金魚ねぷたを観光客に配るなど、現在の「見せる祭り」「もてなす祭り」のスタイルを確立していきます。
- 1970年(昭和45年):初の「商工会議所会頭賞」受賞
- 大阪万博に沸くこの年、卓越した運行と堀江清泉氏のねぷた絵が高い評価を受け、初の主要賞である「商工会議所会頭賞」に輝きます。
- 1980年(昭和55年):国の重要無形民俗文化財に指定
- 「弘前ねぷたまつり」が国の重要無形民俗文化財に指定され、日本を代表する夏祭りとしての地位を不動のものにします。
- 1996年(平成8年):愛好会創立30周年
- 30周年のこの年、三代目 三國 徹 氏が会長就任。記念式典・祝賀会に市内ネプタ団体代表など約70名出席。会員は18歳から70歳まで67名
- 2006年(平成18年):愛好会創立40周年
- 40周年を記念し、当会理事 三上英樹氏によりホームページを立ち上げ
- 2016年(平成28年):愛好会創立50周年
- 節目の50周年祝賀会を開催。この年、絵師・山谷寿華氏による美しい大型ねぷたとともに、4メートルの前ねぷたが加わり、祭りを大いに盛り上げました。
- 2022年(令和4年):『弘前ねぷた記録登場300年』
- 1722年の『御国日記』に「二番:茂森町」と書かれてからちょうど300年。歴史の当事者として、茂森の地はかつてない誇りと喜びに包まれました。
- 2026年(令和8年):【茂森津軽ネプタ愛好会 創立60周年】
- 弘前最古の愛好会組織として、前人未到の還暦(60周年)を迎えます。
- 近年、若手・人手不足や安全性を考慮し、あえて「ひと回り小ぶりな大型ねぷた(高さ6.4メートル)」へ移行するという苦渋の決断を下しつつも、「伝統の灯を絶やさない」という強い覚悟で新体制(新会長・5代目 横山隆優氏)がスタート。
- 記念すべき今年の題材には、商家街として栄えた茂森町のルーツであり、深いゆかりを持つ「弘前藩4代藩主・津軽信政公」を据え、当会24年目、伝統の絵師・山谷寿華氏の筆によって、次の時代へとつなぐ新しい出発の光を灯しました。