ねぷたの始まりに関する虚構

ねぷたの始まりについては様々な伝説が残っています。
伝説とは人々により伝えられるものですがその説話も伝え続けられるうちに
事実として間違った虚構として今に至っているようです。

このページは地元科学研究者・松木明知氏著書(津軽書房2006.1.30発行)
「ねぷた」−その起源と呼称−を参考文献としねぷたの起源について
ご紹介いたします。
松木氏は日本全国の沢山の史料を基にねぷたの起源に関し裏付け実証し
ねぷたの起源に関し理にかなった説明をしております。



ねぷたの起源

祓(はらい)・禊(みそぎ)と七夕と盂蘭盆の3つの習俗が合わさったもの。
元禄6年(1693年)に京都から茶道指南のため野元道元が弘前に招かれ
その人脈を生かし元禄13年(1700年)〜元禄15年(1702年)にかけて
京都から多くの織物職人(80〜90名)を弘前に移住させたそうです。
その方々の職場が紺屋町の織座です。移住後10年余り織物の普及に尽力しましたが故郷京都を偲び織座に盆灯籠を飾り、後にこの時期旧暦7月6日に
日本古来の農耕に伴う睡魔を払いのける習俗ねむり流しの「灯火」の代用として盆灯籠を用いそれを弘前の人々が真似たものが「ねぷた流し」です。
7月7日(七夕)は正月1月7日と折半する日で厄を払いこの日に願い事をすると成就するとされた日。
津軽藩主信寿が享保5年(1720年)に観たねぷた流しに感激し再び観たいと
家臣に命令し従来のねぷた流しから独立し「ねぷた」という名詞が誕生したのが享保7年(1722年)で弘前ねぷた祭の起源です。

坂上田村麻呂起源伝説の虚構
元禄年間以前の人々が他地方の人々にねぷた流しに対して古く見せ権威をつけようと1750年前後に坂上田村麻呂起源伝説が生まれたがそれを伝える史料自体が著者も書かれた年代もあやふやであり信頼性が無い。

津軽為信起因伝説の虚構
津軽為信が参勤交代で京都に滞留中の文禄2年(1593年)孟蘭盆に於いて
長門守に二間四方の大灯篭を作らせ、『津軽の大灯篭』と遠国にまで大評判 となり、国元でも行なわれるようになったという虚構。
京都ではその当時の数百年前から灯籠を作っており田舎者の為信が今更作ったとしても誰も驚かない事と京都及び近隣地域の文禄年間以降の史料の孟蘭盆の項に全く出ていない。また製作を命じたとされる長門守はその当時まだ
為信には仕えていなかったとされる為です。

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