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茂森津軽ネプタ愛好会
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弘前の山車

弘前の山車は、四代藩主津軽信政公の時代の天和二年(1682)八月十五日の弘前八幡宮祭礼施行の際、神輿の露払いとして各町内の若衆たちによって繰り出されたのが初めです。弘前八幡宮は津軽藩の総鎮守として人々に崇拝されてきた神社ですが、祭礼は、藩主が参勤交代を終えて無事に帰城した喜びを、城下の人たちと分かち合いたいということで始められました。山車飾物の特徴は、京都や江戸の文化の影響を受けた人形を中心とした高欄つきの山車であり、後に弘前組ねぷたに影響を与えたと言われています。題材は、各町会と深いつながりがあり、能や謡曲・故事来歴などを引用して表現され、町会のシンボルとして、また繁栄を願って、町会の豪商たちが競って京都などから高価な衣裳を仕入れるなど、町大文化の粋を示すものでもありました。

茂森町の山車

茂森町は藩政時代に、江戸や京都から役者や浄瑠璃語りなどを招き、城下の民衆に倫理道徳を植え付けるために常設の芝居小屋が設けられたところです。当時の民衆にとっては唯一の娯楽場で、芸能人のいる町でありました。このためか、茂森町の山車は芝居と関係があるようで、町印は赤い金欄の羽織を着た猿と、その下に大太鼓をたたく唐子で、三番叟の場面を表しています。三番叟は祝言や物ごとの始めに舞う狂言や歌舞伎の踊りの様子を見せています。町印として使われた三番叟は天下泰平、五穀豊穣を祈り能【翁】の中で演じられるものである。練物は文化3年子持ち山姥となる。また、山車の「大根山」はふたまた大根に作られていますが、ふたまた大根は聖天さま(歓喜天)を表し、夫婦和合、家内安全、善事成就の神として、商人や芸能人、女性から信仰されていました。



当時の茂森町は藩主信政公が江戸や京都から役者や浄瑠璃語りらを招いて城下の茂森町に民衆の道徳倫理を植え付けるために常設芝居小屋茂森座(当時は広居座)を元禄4年(1691年4月8日建設・・昭和7年廃業)を建てたところで城下の娯楽場として、芸能とは深い繋がりがあったと思われます。

また、一説には当時、茂森町には津軽藩の御用八百屋、荒谷家があり、一切の野菜を納めていたため藩公から茂森山車は大根にせよとのお声がかりで、この山車を選んだとも言われる。

当時の運行体系は町印→花車→練物(隈取・安宅松)・・紅白のボタン花を飾ったお囃子車→麻の上下を着た太夫兵吉→はた振り→大根山の山車→名主の順。総勢174名。

ふたまた大根=聖天さま(歓喜天)

弘前市銅屋町の最勝院境内にある元大円寺本堂(現護摩堂)に祭られていて本堂の欄間に大根山と同じふたまた大根の絵馬が奉納され飾られている。(山車のふたまた大根との直接の関係はございません。)

最勝院護摩堂に奉納されている絵馬







町印の羽織や唐子の衣装は現在も茂森町会で大切に保管されている。

寄贈大根山

直径1.85m

長さ3.35m

茎  50cm